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菩薩の誓願は、
「願」は「願」だけでは、いつまでも具体的な歩みとはなりません。
そのままでは、動きを伴わなず、静的であるわけです。
例えば「南極点に立ちたい」という願いを持つことは誰でもできますが、
ほとんどの人はそれについて具体的な準備や行動をすることはありません。
それを実現しなければ、別の何かの利益や恩恵をあえて断念する。
それが「誓い」です。「願掛けと塩断ち」のような関係です。
「誓い」立てることによって、
「願成就」への具体的な歩みになっていく。「願」が動態的になるわけです。
法蔵菩薩の場合は、
苦悩する衆生を救済したいという「願」ですが、
それを「自分の正覚は完全なもととはならない」とすることで「誓い」が立てられます。
つまり、「苦悩の衆生が救い」(願)、「が成就しなければ、仏と成る道は完成しない」(誓い)という関係です。
このような構造を持つ〈誓・願〉は、苦悩の衆生が存在する限り
完結してしまうことはありえません。
法蔵の立場になって考えてみれば、
自らが正覚を成就し仏と成ることを断念することによって、
衆生を救わんとする願が誓願として
働き続けることになるわけです。
菩薩の歩みというのは完結してしまうことが目的なのではなく、
むしろ、衆生救済といういつ果てることもない課題を担うあゆみであるのですから、
終わりのない歩みであることによって、
仏に成る道(成仏道)という意味が生まれてくるのだと言えるわけです。
http://www.akashi.co.jp/home.htm
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