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正誤 追加

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 3月 7日(金)11時50分41秒
  51頁12行 誤[御三条]―→正[後三条]

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

ご指摘ありがとうございます。

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 3月 1日(土)09時34分52秒
  timiraさん、
初めまして。 ですか?

ご指摘ありがとうございます。

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

私もミス

 投稿者:timira  投稿日:2008年 3月 1日(土)07時45分21秒
  p.32 2行目「号土御門院号」→「号土御門院」  

校正ミス?

 投稿者:timira  投稿日:2008年 3月 1日(土)07時43分32秒
  私が気づいた一点です。

p.32 2行目「号土御門号」→「号土御門」
 

新著 正誤表

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 2月28日(木)10時37分32秒
   この度刊行しました『親鸞の仏教と宗教弾圧 −なぜ親鸞は『教行信証』を著したのか−』にいくつか訂正を要する部分が見つかりました。
 著書の方は、増刷の時まで、訂正する機会がありませんが、
とりあえず、この場でお知らせいたします。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
○36頁9行目 誤[七十二歳から] ―→ 正[七十歳から]

○60頁1行目 誤[『明月記』は、]―→ 正[まず『明月記』の]
     ※「まず」を挿入、「は」を「の」に、「、」をトル

○167頁5行目 誤[教えの意義を]―→ 正[教えの意義が]

○203頁4行目 誤[厚く帰依し] ―→ 正[篤く帰依し]
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

もし、皆さまの方でお気づきの点がありましたら、この場でお示しいただくか、私までメールをいただけましたらありがたく思います。

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

最後の一人を救うまで、

 投稿者:お留守居役様  投稿日:2008年 2月21日(木)23時44分28秒
  私は仏にならない、という強い主観的意志を語感的に読み取れるようになりました。

ありがとうございます。
 

途上の楽しみ

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 2月21日(木)11時17分3秒
  到達の楽しみ(願の完結)と途上の楽しみ(願の持続)

小学生で、遠足が楽しみだった頃、
リュックに荷物を入れたり出したり、お菓子を買いにいったり、
お弁当は何かなと考えたり、とてもワクワクしていた、
ところが、当日は期待したほど楽しくはなかったりしたこと、
そういうことってありませんでした?
遠足の前の日の楽しみというのはあると思いませんか。

極楽浄土とか成仏というのも、
到達してしまうこと自体よりも
自分が、それにいたる途上に立ち歩んでいるということにおいて楽しい。
願がありそれにむかって歩み続けることが楽しみであると。
到達は達成感はあるかもしれませんが、同時に楽しみの終結でもあります。

願に向かう歩みそのものに満足ということが成り立つのが
往生ということではないかと思います。

菩薩の成仏道というのも、途上であり続けることにおいて
意味がある。
そういう道に出会いえたことが喜びとなるような歩みではないかと思います。

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

菩薩の歩みは終わらない

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 2月21日(木)10時47分26秒
  菩薩の誓願は、
「願」は「願」だけでは、いつまでも具体的な歩みとはなりません。
そのままでは、動きを伴わなず、静的であるわけです。
例えば「南極点に立ちたい」という願いを持つことは誰でもできますが、
ほとんどの人はそれについて具体的な準備や行動をすることはありません。
それを実現しなければ、別の何かの利益や恩恵をあえて断念する。
それが「誓い」です。「願掛けと塩断ち」のような関係です。
「誓い」立てることによって、
「願成就」への具体的な歩みになっていく。「願」が動態的になるわけです。

法蔵菩薩の場合は、
苦悩する衆生を救済したいという「願」ですが、
それを「自分の正覚は完全なもととはならない」とすることで「誓い」が立てられます。

つまり、「苦悩の衆生が救い」(願)、「が成就しなければ、仏と成る道は完成しない」(誓い)という関係です。

このような構造を持つ〈誓・願〉は、苦悩の衆生が存在する限り
完結してしまうことはありえません。

法蔵の立場になって考えてみれば、
自らが正覚を成就し仏と成ることを断念することによって、
衆生を救わんとする願が誓願として
働き続けることになるわけです。

菩薩の歩みというのは完結してしまうことが目的なのではなく、
むしろ、衆生救済といういつ果てることもない課題を担うあゆみであるのですから、
終わりのない歩みであることによって、
仏に成る道(成仏道)という意味が生まれてくるのだと言えるわけです。

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

阿満さんの講座

 投稿者:お留守居役様  投稿日:2008年 2月18日(月)17時55分13秒
  16日(土)に阿満さんの「連続無窮の会・講座『唯信抄文意』を読む」に」参加しました。

終了後に無量寿経の「正覚をとらじ」について質問しました。
願の成就条件として「仏にならない」は、変で、言い方もおかしいと思う。
法蔵菩薩が仏になるかどうかは、どうでもよいことではないか、と。

参加者から、法蔵菩薩はいつでも仏になれたが、衆生救済のために仏にならなかった。
阿満さんからは、法蔵菩薩は仏になっている。衆生救済が大乗仏教の特徴であると説明がありました。

そのときは、納得できましたが、後で考えるとまだ腑に落ちません。
菩薩→誓願→成仏の課程は解りますが、そこに「仏にならない」というセリフが入るのが解らないのです。
誓願が成就しなければ、仏にはなれない、仏ではない、仏にはふさわしくないとでも言うべきではないかと思うのです。
「ならない」という意志表現は奇異に感じるのです。

さらなる疑問として、仏になってから誓願を立て、救済に当たっても良いのではないか。
実際に阿弥陀仏になってからも説法しているようです。

また、誓願は成就したら不要になるのではないでしょうか。
彼岸に渡る船も渡り終われば不要になるでしょう。

とんでもない錯覚をしているとは思うのですが、懐疑に落ち込んでいます。
たぶん成仏と言うことをそれほど望んでいないからかなあなどと思っています。
 

それはそれは

 投稿者:らくりん  投稿日:2008年 1月20日(日)09時52分41秒
  阿満さんは、この春には富山・金沢の方にいらっしゃることになっています。
あいにく、私は他の用があるので、ゆっくりとお話しすることはできないので残念です。

http://www.akashi.co.jp/home.htm

 

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