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郷愁への誘い

 投稿者:九丸(ひさまる)  投稿日:2020年 1月14日(火)01時05分51秒
  通報 編集済
  透けた雑木林をぬけると
見えてきたのは死体だった
遠目からでもわかる
子供たちがいない
いや、いなくなった校舎なんて
血も熱も通わない死体でしかなかった
一歩近づくごとに実感する
春に取り壊される校舎は
もはや死臭すらしない
ただただ枯れ果てていた

二階建ての校舎は
薄暗い雲を通した光のせいか
あんなに真っ白に見えていた外壁が
今は薄汚れた白にしか見えなくて
こうやって目の前に立っても
同じものであるとは思えなかった
あそこは保健室
隣は教員室
そのまた隣は家庭科室
記憶をなぞるように
左から目線を滑らせる
どの窓も暗い井戸のようだ
甘ったるい感傷なんて
見えない底に吸い込まれそうだ

手入れもされずに所々剥げた芝生
正面玄関に向かいがてら足を踏み込む
青々とした力強い弾力なんてものはなく
茶けた上っ面を土の感触を踏みしめながら歩く
きっとここにきたのは
口に出してしまったからだ
思考が言葉になり
それが行動になる
二階の図書室で読んだ伝記に
そう書いてあったな
今まで絶対口にしなかった
懐かしむのは構わない
ただ、「あのころは良かった」
それだけは言うまいと生きてきた
平気で口にする上司は軽蔑し
二十代で口にする後輩はしかり飛ばした
今がいいに決まってる
過去なんて上書きされる今にはかなわない
例え焦げのようにこびりついていようとも
押し寄せてくる今という重曹が
こそげおとしていくだけだ
そう思っていたはずなのに……

『おおきな声であいさつしよう! 元気になるためのだいじないっぽ!』
六年間見続けてきた言葉
その下の扉はもう開くことはない
乾いた風に頬をぶたれて
冷たい痛みで押されるように
顔をそむけると
タイル張りの手洗い場が目に入る
五つ並んだ蛇口に一つだけ
ちょうどまん中に
ミカンネットがぶらさがっていた
赤々しいオレンジだったはずなのに
色艶も抜けて
今にも切れ落ちてしまいそうだ
そこに入った石鹸も
こすられ、こすられ
汚れをすりこまれたように
薄っぺらでくすんでいる
僕は手を洗いたくなった
洗えば石鹸は色を取り戻せるはずだ
滑らかな乳白色を
そして
やわらかで、包み込んでくれるような
優しい匂いも香るだろう
そうしてあげたかった
近づき、蛇口を右手で握る
回らないもどかしさに力を込める
自分の熱が掌にくい込む
キュッ
短い音と共に蛇口が回る
「やった!」
出した声に続くはずの
水が落ち弾ける音は聞こえてこない
洗えなかった……
僕は握った手を
黙ってみつめた



*一部修正しました。
よろしくお願いいたします。
 
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